昭和五十四年六月十四日 朝の御理解 御理解 第九十六節 「世の中の人があれこれと神の事を口端にかけるのも神のヒレ イぢゃ人の口には戸がたてられぬ先を知っては居らぬぞ如何 に世の人が顔にかかるやぅな事を言っても腹を立てな神が顔 を洗ってやる」 昨日、北九州門司港教会の牟田先生からお礼のハガキが来ております。その中に、いつも此の中に、此所から発行されておるものを皆読んで下さってあるわけですけれども、いつもの葉書を見ても、その実感ですね。本当に有り難いと思うておるから、素晴らしいと思うておるなら「素晴らしいと思うておる。」ということを、一口ではありますけれども、いつもその事が書き添えてお礼を言っておられます。昨日のハガキにも、ま、これは嘘ではなかろう、本当に実感だろうと思うのですけれども、こういう事が書いてある。 「大祭の時、大阪御発行の御本を頂いた節にも思わせて頂きまし たが、題名の『天の心 地の心』は全く素晴らしいと思います。
と、いう言い方は失礼かも知れません。本当に尊く有り難く大 切な事を思わせて頂きます。
くり返しくり返し拝読させて頂きます。」と、言うような事が書いてあるんです。本部から頂いてこられた「大阪講演の御本も素晴らしいと思いましたけれども、『天の心 地の心』は全く素晴らしい」と、こう書いてある。私はその「全く素晴らしい」と、言うところが、本当に素晴らしいと思うとかなきゃ書けない事だと思いますね。
この方は、教団きっての文章家だと、本部のいろんなパンフレットなんかできますのは、殆どが先生が書かれたのだそうですね。お話も大変お上手だそうですけれども、最近は、合楽の読みものを大変待って読んでおられるという、感じなんですね。
昨日、十三日会に若先生がお話しておりますように「今度の御本部参拝をさせて頂いて、あまりにもその反響が素晴らしいのに、おどろいて帰ってきた。」と、いう話をしておりました。やはり今の、御本部から頂いてきた、あの御本をみんな読まれたと言うこと、もありましょうけれども、合楽でたくさんな修行生が育っておる事なんかが、ね、これが言うならば実証ぢゃないか、と、合楽合楽と言うけれども、これが証ぢゃないか、というものが段々わかってきた、と、いう感じです。ね。
もう、それこそ悪名が高いということでは、もうそれこそ、私共が想像もつかないような悪名が全国に、どこからどういうふに伝っていくのか知らんけれども、そりゃもう想像以上でしたけれども、それが一変して反対になって来た、と言うこと。
とにかく、特に四国教区では「合楽に修行に行きたい。」と、いう教師がたくさんある。それで、それをもう「めいめいに、我がまま勝手に行ってもらっちゃならん。」と。だから、「連合会なら連合会長の許可を得て行くようになった。」と、言うような話も聞いて来ておりましたです、ね。
悪かとこに修行に来るはずない。素晴らしいとか、よいとか思うから「修行に来たい。」と、こういうわけでございましょうけれども、今日のご理解を頂いてです、とにかく、ね。人が、どんなに言うても、ね、〔神の事を口端にかけるような事があっても腹を立てな〕と。〔人の口には戸は立てられぬ、先を知ってはおらんぞ、いかに世の人が顔にかかるような事を言うても腹を立てな、神が顔を洗うてやる。
あらためて、神様が顔を洗って下さっておる働きが、合楽の上に感じられます、ね。
ま、そういう中で、皆さんは信心の稽古をなさっておられるんです。これは、いつも私が申しますように、んなら、どんなに素晴らしと私が言うても、皆さんが素晴らしいと言う思い、そして素晴らしい教えを実験し実証しておいでられなければ、口で言うとるだけぢゃでけん。もう、身をもって、心をもって実証していかなければなりません、ね。
そこでです、私は思うのですけれどもね、そういう働きがおこってくる。そういう、例えば、どういう人が悪口を言うても、それを黙って歯を食いしばって辛抱する、と言うのでなくて、有り難く受けられる手立てが、合楽理念には説いてありますね。でなかったら、私は〔神様が顔を洗ってやる。〕と言ったような、おかげにはなってこないと思うです。
「全く素晴らしい。」と、私は言われる信心がね、合楽の信心にそれを、皆さんが感じられた時、それを、身をもって行じておいでられる、ね。私は毎朝、これは実感することですけれども、この朝の三時半から、朝の御用の間だけの私の心の状態、体の状態というものが、どうしてこんなに有り難いだろうか、どうしてこんなに、もう言うならば、体がきつくもなからなければ、痛い痒いも感じんでんすむ、ということは、それこそ、全く素晴らしいことだと思います、ね。もう、午後になります、夕方になりますと、これはまあ、私は糖尿病のせいだと思うのですけれども、もう、体のおきどころのないごと、体全身さすってもらっても、きつい程しに毎日あるんですけれども、もう朝の一時だけは、もう本当に心も爽快、体も爽快、もう本当に、こういう状態が一日続いたらどんなに素晴らしいことだろうか、と、思うようにございます。ね。
もう、全く素晴らしい心身共の状態を、私は感じます。それが、言うならば、合楽の御比礼の源泉ともなっておると、私は思います。
ね。
また、人が、それこそ顔にかかるような事を言うても、神の事をとやこう言うような者があってもね、それを有り難く受けられる心は私の朝の一時の心の状態のような状態であったら、絶対言い訳することもいらなければ、ね、それに反発する、腹を立てる事は、勿論いらないわけです。そこには、[神が顔を洗うてやる。」という実証があるんです。
昨日、若先生の話を聞いておっても、それを感じました。今日また、今、牟田先生のハガキを読ませて頂きましてね、そりゃおそらく牟田先生あたりでも、ずいぶん合楽の悪口を聞かれた先生であろうと思います。けども、一度合楽の何かにふれられたとかろからです、「もう、全く素晴らしい。」と、言われるようなおかげを受けておられる。ね。
本当な事が本当な事として、わかっていくためにもね、『黙って治める。」ということが言われますけれども、その黙って治める、その内容が言うならば、朝の一時の私の心の状態、又ハ体の状態、そういう状態の時でないとね、心が、言うならダラーッとしておる時、体がそこが痛かったり、きつかったりする時は、仲々健全な、言うならバ、心に健全なおかげが伴う、と言うようにです、不健全な心の状態の時には、必ずそれハ、言い訳もしたり腹も立つわけです。心が健全で水々しいまでに有り難さいっぱいの時には、腹の立つだんぢゃありません、ね。それこそ、先の事は知ってはおらんという心の大きな心が開けて参りましてね、そして、なら結果においては、神様が顔を洗って下さるようなおかげにもなってくる、というふにもおもいます。
もう、私が朝の時間を大切にする。もう本当にね、朝のご祈念に眠けがくるような事では、水々しさが欠けとる証拠です、ね。だから、そこにどうか一つ工夫がいるんです。ね。
私の、なら、朝の三時十五分に起床いたします。もう、それまでの時間というものは、その時間を頂くことのために、一生懸命心をつめます。もうそれこそ、例えばここへ私が四時に出る時に、ここの扉をあけて時間を知らせに来てくれるんですけれども、この戸がの心にチラッと何かがあるんですね。そんなに微妙です、私の朝のあけたまま行ってくるわけですね。
もう、例へば、時計が一分おそかっても勿論いかんのですけれどもね、もう、その辺のところを非常に神経使うわけですね、修行生の先生方も。でないと、神様との、その出合い、というものがね、タイミングが生まれて来る事のためにも、ね、朝の時間をそのようですから、朝の時間を、例えばサァ時間が来たから起きる、といったような事では、そんあものは生まれてきません。前の晩からちゃんと準備がいるんです。もう、床につく時にその事が願ってあり、また、その修行がしてあって初めて、そういう水々しい心がうまれてくる。そういう、水々しい心があって初めて、どういう事がおこってきてもおどろかんですむ。どういう事があっても、言うならばそれに反発したり腹を立てたりすることのいらない、おかげの源泉が私の場合は、朝にあるというふに思います。そういう心でなからなければね、それこそ根も葉もないような悪口を言われたら、それこそ、言うて返したいような事になって参りましょう、ね。言うて返せばわかるかも知れませんけれども、それは、それまでのこと、〔神が顔を洗うてやる〕と言うのは、大変なものです、ね。全国に悪名が高かったのが、全国に今反対になろうとしております。そういうおかげも、私の言うならば朝の一時のような心の状態で、それを受けるからぢゃないかと思います。 「 どうぞ 」